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森啓次郎エッセイ
森啓次郎エッセイ
6/13(金)
「存在認知」の希薄

 男は「犯行を止めてほしかった」と供述しているという。準備状況を「勝手サイト」で同時中継しながら、誰からの反応もなかった。自分の存在を世の中に発信する唯一の手段にも裏切られて、「ならば、本当にやってやる」との思いを強めていった。秋葉原無差別殺傷事件。

 サイトへの書き込み――反応の皆無――孤独感――自暴自棄――凶行への流れは、男の身勝手な思いこみだ。中学までは成績優秀だった「栄光」から、進学高校に入って成績下位に落ちた「挫折」。出来ればレーシングカーの設計に関わりたい「夢」と、結局は派遣社員として自動車関連会社の下請け社員になっている「現実」。

 私たちは皆、こうした「栄光と挫折」、「夢と現実」の中にいる。それでも凶行に走らないのは、自分の存在を喜ぶ顔、それは恋人だったり、妻だったり、子どもだったり、親だったり、友人だったり、自分が作ったものを手にする、あるいは目にする他人だったり、に囲まれているからだ。他者による「存在の認知」と将来へのささやかな希望。それらは壊れやすく脆く、努力し続けないと保てないものだけれども、かろうじて心のバランスを取ってくれている。

 人を殺すことによってしか、他人が振り向いてくれない、自分の存在を認めてもらえないと思い込んでしまう時代状況は「重病」だ。加藤智大(ともひろ)容疑者は、インターネットへの書き込みは必ず誰かが見てくれると思い込んでいた節がある。だから発信し続けた。「自分勝手な書き込みなど誰も読んでくれるわけがない」「読んでも本気に受け取るわけがない」とは考えなかった。

 「つながっているのに切れている」ネット社会の怖さなど想像も出来なかったに違いない。

 ところで、大々的に報じられる「秋葉原事件」の横に、「無戸籍で出産、子に戸籍」の記事が載った。民法772条の、いわゆる「300日規定」で無戸籍になった女性から生まれた子に戸籍が認められた。喜ばしいはずの報道に水を差しているのは、「新しい戸籍には夫と男児の名前しか記さず、女性の無戸籍状態は続いている」事実だ。

 6月4日、最高裁は「結婚していない日本人男性とフィリピン人女性から生まれた後、認知されたフィリピン国籍の子供たちに日本国籍を認める」判決を下した。にもかかわらず、この女性には依然として戸籍が認められない。

 女性は、母親が夫の暴力を理由に離婚し、その73日後に生まれた。民法には「離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子とみなす」規定があるために、母親は出生届を出せなかった。

 母親も父親もはっきりしているにもかかわらず、「前夫の子」であることを拒否すれば「無戸籍」になってしまう理不尽。戸籍がないとは、国家によって存在を認知されていない点で「無国籍」と変わらない。義務教育すら受けていない子が存在している。秋葉原の容疑者は、少なくとも国家からは存在を認められていた。

 法務省と鳩山邦夫・法務大臣の度量の小ささに驚く。アメリカではアメリカ国内で生まれた子どもには全員アメリカ国籍が認められる。移民の国の良き伝統である。だから、お腹の大きい女性が、ボートに乗ってアメリカの海岸に辿り着き、砂浜を駆け上ろうとする映像を何度も見てきた。

 この国では、母親と父親が自分の子だと認知した子どもに、両親の子どもとしての戸籍を与えることも出来ないでいる。
レギュラー出演者
森 啓次郎
森 啓次郎
「Asahiパソコン」「ぱそ」「週刊朝日」編集長を経て、現在、大学講師(メディア論)。