7/6(金)
「阿鼻叫喚と美談伝説」
京都は原爆投下目標の一つだった。周りが山に囲まれ、爆発の威力を調べるのに最適な条件を満たしていた。
広島、新潟、小倉も予定地にされた。そのため、通常爆弾の爆撃対象都市から外されていた。原爆投下前に破壊してしまうと、その効果が測れなくなるからである。
戦後、まことしやかに流された「文化財を守るために、京都は攻撃目標から外された」説。「ウォーナー伝説」と呼ばれている。ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長、ラングドン・ウォーナー。1907年(明治40年)に来日し、約2年間奈良で仏像彫刻を研究していた。彼が進言し、京都、奈良が爆撃されなかったというのは、GHQが中心となっておこなった情報操作の一つである。
ウォーナー氏自身は、何度も「爆撃が回避されたのは、私のせいではない」と否定し続けたのにもかかわらず、日本人は「その謙虚さ」に感銘してさらに「美談」に仕立て上げてしまった。新聞も一役買った。日米合作の「伝説」の誕生である。日本国内のあちこちに「ウォーナー碑」が立てられている。
背景には、原爆使用の残虐性を問う世論の高まりがあった。追及をかわすために、「原爆投下の目標設定には、文化までもが配慮されて慎重に行われた。使用しなければ、上陸作戦でアメリカ兵士100万人に被害が出た」という説が流された。陸軍長官スチムソンが1947年、雑誌に発表した手記の中に書いた。
久間章生防衛大臣の理屈も、原爆使用正当化論の一つである。「日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。(中略)長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだ」と講演で話しているが、ソ連の参戦は、1945年2月におこなわれたヤルタ会談で「ドイツ降伏の90日後」と連合国内で合意されていた。
アメリカは日本が降伏の準備をしていることをつかんでいたし、ソ連の参戦も分かっていた。ソ連が参戦すれば、日本が降伏することも予想していた。
原爆を投下し、その威力を世界に知らしめるのは、ソ連参戦によって日本が降伏に踏み切る前しかなかった。5月7日、ドイツは連合国に対して無条件降伏をする。そして、ちょうど90日後の翌日に当たる8月6日、広島に原爆が落とされる。続いて9日、2発目の原爆が長崎に落とされる。ソ連が正式に参戦したのは8月9日午前0時である。むしろ、ソ連参戦を促す形で最初の原爆が投下された。長崎に落とされたとき、ソ連はすでに参戦していた。
広島がウラン型、長崎がプルトニウム型の2種類の原爆だった。投下の方針は、ドイツ降伏とともに決定されていた。1発で十分なのに、2発も投下したのは、違う種類の原爆を試してみたいという軍事的誘惑である。原爆を落とさなくても、日本が降伏するのは時間の問題だった。つまり、広島に原子爆弾という大量破壊兵器を落とす理由は、何もなかった。市民を大量虐殺する理由など何もなかった。降伏を促すためには、軍事基地を通常爆弾で攻撃するだけで十分だった。
広島にいた父は、市内の様子を「阿鼻叫喚」(あびきょうかん)と日記に書いている。
久間氏は島原半島出身で、長崎市から30キロ以上離れていた。当時4歳。両親や親戚からその悲惨さを聞かなかったのだろうか。
京都は原爆投下目標の一つだった。周りが山に囲まれ、爆発の威力を調べるのに最適な条件を満たしていた。
広島、新潟、小倉も予定地にされた。そのため、通常爆弾の爆撃対象都市から外されていた。原爆投下前に破壊してしまうと、その効果が測れなくなるからである。
戦後、まことしやかに流された「文化財を守るために、京都は攻撃目標から外された」説。「ウォーナー伝説」と呼ばれている。ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長、ラングドン・ウォーナー。1907年(明治40年)に来日し、約2年間奈良で仏像彫刻を研究していた。彼が進言し、京都、奈良が爆撃されなかったというのは、GHQが中心となっておこなった情報操作の一つである。
ウォーナー氏自身は、何度も「爆撃が回避されたのは、私のせいではない」と否定し続けたのにもかかわらず、日本人は「その謙虚さ」に感銘してさらに「美談」に仕立て上げてしまった。新聞も一役買った。日米合作の「伝説」の誕生である。日本国内のあちこちに「ウォーナー碑」が立てられている。
背景には、原爆使用の残虐性を問う世論の高まりがあった。追及をかわすために、「原爆投下の目標設定には、文化までもが配慮されて慎重に行われた。使用しなければ、上陸作戦でアメリカ兵士100万人に被害が出た」という説が流された。陸軍長官スチムソンが1947年、雑誌に発表した手記の中に書いた。
久間章生防衛大臣の理屈も、原爆使用正当化論の一つである。「日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。(中略)長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだ」と講演で話しているが、ソ連の参戦は、1945年2月におこなわれたヤルタ会談で「ドイツ降伏の90日後」と連合国内で合意されていた。
アメリカは日本が降伏の準備をしていることをつかんでいたし、ソ連の参戦も分かっていた。ソ連が参戦すれば、日本が降伏することも予想していた。
原爆を投下し、その威力を世界に知らしめるのは、ソ連参戦によって日本が降伏に踏み切る前しかなかった。5月7日、ドイツは連合国に対して無条件降伏をする。そして、ちょうど90日後の翌日に当たる8月6日、広島に原爆が落とされる。続いて9日、2発目の原爆が長崎に落とされる。ソ連が正式に参戦したのは8月9日午前0時である。むしろ、ソ連参戦を促す形で最初の原爆が投下された。長崎に落とされたとき、ソ連はすでに参戦していた。
広島がウラン型、長崎がプルトニウム型の2種類の原爆だった。投下の方針は、ドイツ降伏とともに決定されていた。1発で十分なのに、2発も投下したのは、違う種類の原爆を試してみたいという軍事的誘惑である。原爆を落とさなくても、日本が降伏するのは時間の問題だった。つまり、広島に原子爆弾という大量破壊兵器を落とす理由は、何もなかった。市民を大量虐殺する理由など何もなかった。降伏を促すためには、軍事基地を通常爆弾で攻撃するだけで十分だった。
広島にいた父は、市内の様子を「阿鼻叫喚」(あびきょうかん)と日記に書いている。
久間氏は島原半島出身で、長崎市から30キロ以上離れていた。当時4歳。両親や親戚からその悲惨さを聞かなかったのだろうか。
