11/17(金)
「裁判長、異議あり!」
今思えば、あれは立派な「いじめ対策」だったのではないだろうか。もう、40年以上前の高校時代のこと。月に一度ほどの割合で、「模擬裁判」がクラスで開かれていた。裁判にかける内容は、身近なクラス内の問題から社会問題まで幅広かったと思う。
「裁判長、異議あり!」「それは誘導尋問です!」「異議を認めます」―――裁判長のほか、原告、被告を置き、各々に弁護人もついた。証人尋問もあった気がする。生徒の多くは傍聴人になるが、友人たちが演じる緊迫したやりとりに引き込まれた。もちろん、自分が主人公になることもある。
「ペリー・メイスン」をみんな見ていた。レイモンド・バー演じるギョロ目の弁護士の熱弁に釘付けになった。最後に有罪か無罪かを決めるアメリカの陪審員制度にも感心した。
稚拙であっても、中学生、小学生にも模擬裁判はできる。事前に「ペリー・メイスン」を見せてあげればいい。模擬裁判は現代風に言えばいわゆる「ディベート」である。「ゆとり教育」もこういう風に使われれば、意味があった。
「いじめ」が発覚したら、模擬裁判で取り上げればいい。本人はしゃべらなくてもいい。埼玉県本庄市のケースなら、「借りた金を返せ」というのが正当な要求なのかどうかが裁かれる。まず、そのお金は本当に借りたものなのか。さらに、本当に借りたとしても、「500円に利子がついて2万円になった」とするのは正当といえるのかどうかが争われる。弁護人の腕の見せ所である。
判決はどちらに転んでも構わない。全員でその問題を話し合うことが実は重要なのだ。しかも、架空の世界で「演技」するので深刻にならずに済む。この場合、アメリカの陪審員制度の方が多くの生徒が判決に参加できるのでお勧めだ。裁判員制度より向いている。
昼食の時間には「ショートスピーチ」があった。毎日、先生の席に誰かが座って話をする。題材は何でもいい。家族のこと、趣味のこと、悩んでいること、将来の夢でもいい。1日1人、順番で全員に回ってくる。ほかの子は食事をしながら話を聞く。静かに食事をする躾になる。人前で話す度胸がつく。お互いをよく知る機会になる。人の話に耳を傾ける練習になる。「いじめられている」悩みも訴えられる。年に2回ほど回ってきた。
学年が上がるときに行われるクラス替えにも特徴があった。2年生になるとき、校庭に全員が集められた。1段高いところに先生たちが立ち、A組、B組、C組などの旗を持っていた。
合図とともに、自分が行きたいクラスに移動出来た。「嫌なやつがいたら逃げられる」「好きな人がいたら同じクラスになれる」「苦手の先生がいたら、担任から逃れられる」―――先生たちも必死だったに違いない。もしかしたら、生徒が誰一人集まらないかもしれないからだ。生徒たちによる「勤務評定」。校長からされるよりよっぽど意味がある。多少、1クラスの人数に凸凹はできたが、クラスが成立しないということは起きなかった。先生たちの顔が生徒に向いていた証拠でもある。
「模擬裁判」「ショートスピーチ」「移動自由なクラス替え」、これだけで「いじめ」は起きなかった。結局、生徒の自主性を重んじる校風が「いじめ」を防いでいたとも言える。
ところで、「いじめによる自殺」の原因は、いじめる子の存在はもちろんだが、周囲の子どもたちの無関心によるところが大きい。その子を孤立に追い込むからだ。「いじめ」があっても、味方をしてくれる生徒がいれば、自殺を防ぐことは出来る。
校内暴力を力で押さえ込んだ80年代半ば以降、多くの学校では生徒の自主性をも押さえ込んでしまったのではないか。自立心を育てようとしてこなかった教育のゆがみが、いじめがあっても「見て見ぬふりする」子どもたちを大量に生み出し、今「いじめによる自殺」を多発させているのではないか。
今思えば、あれは立派な「いじめ対策」だったのではないだろうか。もう、40年以上前の高校時代のこと。月に一度ほどの割合で、「模擬裁判」がクラスで開かれていた。裁判にかける内容は、身近なクラス内の問題から社会問題まで幅広かったと思う。
「裁判長、異議あり!」「それは誘導尋問です!」「異議を認めます」―――裁判長のほか、原告、被告を置き、各々に弁護人もついた。証人尋問もあった気がする。生徒の多くは傍聴人になるが、友人たちが演じる緊迫したやりとりに引き込まれた。もちろん、自分が主人公になることもある。
「ペリー・メイスン」をみんな見ていた。レイモンド・バー演じるギョロ目の弁護士の熱弁に釘付けになった。最後に有罪か無罪かを決めるアメリカの陪審員制度にも感心した。
稚拙であっても、中学生、小学生にも模擬裁判はできる。事前に「ペリー・メイスン」を見せてあげればいい。模擬裁判は現代風に言えばいわゆる「ディベート」である。「ゆとり教育」もこういう風に使われれば、意味があった。
「いじめ」が発覚したら、模擬裁判で取り上げればいい。本人はしゃべらなくてもいい。埼玉県本庄市のケースなら、「借りた金を返せ」というのが正当な要求なのかどうかが裁かれる。まず、そのお金は本当に借りたものなのか。さらに、本当に借りたとしても、「500円に利子がついて2万円になった」とするのは正当といえるのかどうかが争われる。弁護人の腕の見せ所である。
判決はどちらに転んでも構わない。全員でその問題を話し合うことが実は重要なのだ。しかも、架空の世界で「演技」するので深刻にならずに済む。この場合、アメリカの陪審員制度の方が多くの生徒が判決に参加できるのでお勧めだ。裁判員制度より向いている。
昼食の時間には「ショートスピーチ」があった。毎日、先生の席に誰かが座って話をする。題材は何でもいい。家族のこと、趣味のこと、悩んでいること、将来の夢でもいい。1日1人、順番で全員に回ってくる。ほかの子は食事をしながら話を聞く。静かに食事をする躾になる。人前で話す度胸がつく。お互いをよく知る機会になる。人の話に耳を傾ける練習になる。「いじめられている」悩みも訴えられる。年に2回ほど回ってきた。
学年が上がるときに行われるクラス替えにも特徴があった。2年生になるとき、校庭に全員が集められた。1段高いところに先生たちが立ち、A組、B組、C組などの旗を持っていた。
合図とともに、自分が行きたいクラスに移動出来た。「嫌なやつがいたら逃げられる」「好きな人がいたら同じクラスになれる」「苦手の先生がいたら、担任から逃れられる」―――先生たちも必死だったに違いない。もしかしたら、生徒が誰一人集まらないかもしれないからだ。生徒たちによる「勤務評定」。校長からされるよりよっぽど意味がある。多少、1クラスの人数に凸凹はできたが、クラスが成立しないということは起きなかった。先生たちの顔が生徒に向いていた証拠でもある。
「模擬裁判」「ショートスピーチ」「移動自由なクラス替え」、これだけで「いじめ」は起きなかった。結局、生徒の自主性を重んじる校風が「いじめ」を防いでいたとも言える。
ところで、「いじめによる自殺」の原因は、いじめる子の存在はもちろんだが、周囲の子どもたちの無関心によるところが大きい。その子を孤立に追い込むからだ。「いじめ」があっても、味方をしてくれる生徒がいれば、自殺を防ぐことは出来る。
校内暴力を力で押さえ込んだ80年代半ば以降、多くの学校では生徒の自主性をも押さえ込んでしまったのではないか。自立心を育てようとしてこなかった教育のゆがみが、いじめがあっても「見て見ぬふりする」子どもたちを大量に生み出し、今「いじめによる自殺」を多発させているのではないか。
