
No.52 「食糧高騰に苦しむ途上国」を見殺しにする強者の論理
200年前の亡霊が甦る。その著書「人口論」で暗黒の未来を予測した経済学者T・R・マルサスの亡霊が、立ち上がる。
世界的に食糧が高騰している。天候異変に――地球温暖化問題が色濃い影をさす――に穀物生産国が大打撃を受けた。小麦価格高騰は、06年のオーストラリアの干ばつから始まった。台風の被害を受けた有数のコメ輸出国のベトナムは06年末から輸出を規制、インドも続いて禁止してしまった。エネルギー問題が絡んで急増するバイオエタノールの生産は、大量のトウモロコシを原料とする。そうして需給バランスが大きく崩れたところに、投機資金が流入した。
途上国ではコメ、小麦価格が2倍ほどにも跳ね上がり、引きずられて消費者物価が上昇を始めた。5月4日から3日間「食糧暴発」という特集を組んだ朝日新聞によれば、エジプトやカメルーンでは、パンなどの高騰で暴動が発生、死者が出た。ケニアでは子どもたちが飢え苦しみ、世界食糧計画(WFP)の支援を待ち望む。何時間並んでもコメを買えないバングラデシュでは、政府がジャガイモを主食にするよう奨励を始めた。アジア開発銀行は、途上国の貧困層への支援プログラムを詰めている。
これを一過性の食糧危機とは、誰しも言い切れまい。食糧需要の増加、環境問題の悪化の背景には、途上国、新興国の成長による世界人口の急増があるからだ。1801年には9億人、1901年には16億人、1950年に25億人だった世界の人口は2007年には66億人にまで膨れ上がったのである。
ここで少なからぬ人が、かって社会科で習ったマルサスの「人口論」を思い出すだろう。マルサスは、「人口は幾何級数的に増加するのに対し、食糧供給は算術的にしか増加しない。ゆえに過剰人口による貧困と悪徳が理想社会の実現を阻む」と断じたのであった。要するに、人口の爆発的な増加に、食糧供給はとても追いつかない。その結果、貧困、飢え、盗み、殺人はては戦争まで起きるという暗黒時代を予言したのだった。
付け加えれば、この「人口」というマルサスの制約を「石油」に置き換え、警告を発したのが1972年のローマクラブの「成長の限界」であった。
そのマルサスの予言もローマクラブの警告も、人類は乗り越えた。生産性の著しい向上、省エネルギーや代替エネルギーという人知で、克服した。だが、途上国の工業化、成長、地球環境の悪化、エネルギー問題の深刻化、慢性的食糧不足、世界的な人口爆発――さまざまな問題が絡み、ついに“地球による扶養力”の限界が見え始めたのではないか。それは確かに、マルサスの世界かもしれない。米国ジョージ・ブッシュ政権の経済顧問を務めたトット・バックホルツ氏は、「今後の世界経済は、マルサスを引用して解説されることが増えるだろう」と指摘している。
では、暗黒の時代が来ると予言したマルサスは、いかなる対策を提示したのだろうか。何もしていない。人間の貧困や悪徳が発生するのは、いたし方のない「人口の原理」ゆえである。人口爆発による食料不足は逃れられない「自然の摂理」なのだ、という結論に帰着したのである。
そして、深刻な食糧不足によって全般的な危機状況に陥れば、疾病の蔓延、産児制限、結婚抑制、戦争などが起こり、結果的に人口増が抑制される。それが、当然の論理の帰結だと予測した。
貧困や悪徳が抗しがたい自然現象であり、それが結果的に人口増を調整するという結論から導き出されるのは、「何もするな」あるいは「なるようになる」という思想である。実際、200年前のイギリス政府は、頻発するストライキ、工場焼き討ちなどによる社内不安を、貧困層に対する「救貧法」の改正で対処しようとしていたが、マルサスは無意味、無駄だと切って捨てた。
もうお分かりだろうか。「何もするな」と唱えたマルサスは、ハイエク、フリードマンらに先立つ市場万能主義(新古典派、保守派など呼び方はいろいろあるが)経済学の源流なのである。同時に、当時のイギリスの地主、支配者層に与した強者の論理を展開したのである。
そのマルサスが今、亡霊のように甦りつつある。私は先ほど、世界的食糧危機には地球温暖化問題が絡んでいて、その背後には途上国の発展による人口急増問題がある、と書いた。これは、現代のネオ・マルサス主義者が真っ先に口にすることなのである。
彼らは内心、「何もするな」と考えている。途上国がどんなに飢えようが混乱しようが支援に消極的、あるいは援助は打ち切るべきだとさえ言う。そんな非人間的な主張が、まかり通ることがありえるのかと思われるだろうか。
では、米国のブッシュ政権が京都議定書から離脱したのはなぜだろうか。彼らは、「途上国に義務を課していない議定書は不完全である」という理由をひとつに挙げている。地球環境問題における先進国責任論を展開する途上国に対して、米国の共和党ブッシュ政権、つまり保守派政府は、「途上国の発展が地球を危機に陥れる」、つまり、「国際的な格差をあったほうがいい、それを解消する支援など必要ない」と、内心確信している。彼らは途上国の発展権を認めない、現代のマルサスたちである。
10年以上前から、新古典派、保守派の主張を源流のマルサスまで辿り、その影の危険を指摘してきた佐和隆光・立命館大教授は、「途上国の発展、人口急増を地球温暖化問題の最大原因とする主張する人びとは少なくない。彼らが、環境問題をこれ以上悪化させないためにも、食糧高騰に苦しむ途上国を放置してもやむえない、それによって人口増が調整されると考えても不思議はない」と言う。
新古典派、保守派は、政府の介入能力を信じない、進歩も啓蒙も否定する反理性主義だ。
途上国への食糧援助を担う世界食糧計画(WFP)の食糧調達費用は上昇し続け、800億円近い予算追加を緊急で求めている。先進各国、国連を初めとするさまざまな国際機関は、経験したことのない急激で広範な食糧不安の認識が薄く、連携できず、援助コストの膨張に戸惑い、明らかに対応に出遅れた。北海道洞爺湖サミットは、食糧・環境サミットとなる。国際社会は今、反理性主義の挑戦を受けようとしている(敬称略、辻広雅文、『週刊ダイヤモンド』掲載)。
世界的に食糧が高騰している。天候異変に――地球温暖化問題が色濃い影をさす――に穀物生産国が大打撃を受けた。小麦価格高騰は、06年のオーストラリアの干ばつから始まった。台風の被害を受けた有数のコメ輸出国のベトナムは06年末から輸出を規制、インドも続いて禁止してしまった。エネルギー問題が絡んで急増するバイオエタノールの生産は、大量のトウモロコシを原料とする。そうして需給バランスが大きく崩れたところに、投機資金が流入した。
途上国ではコメ、小麦価格が2倍ほどにも跳ね上がり、引きずられて消費者物価が上昇を始めた。5月4日から3日間「食糧暴発」という特集を組んだ朝日新聞によれば、エジプトやカメルーンでは、パンなどの高騰で暴動が発生、死者が出た。ケニアでは子どもたちが飢え苦しみ、世界食糧計画(WFP)の支援を待ち望む。何時間並んでもコメを買えないバングラデシュでは、政府がジャガイモを主食にするよう奨励を始めた。アジア開発銀行は、途上国の貧困層への支援プログラムを詰めている。
これを一過性の食糧危機とは、誰しも言い切れまい。食糧需要の増加、環境問題の悪化の背景には、途上国、新興国の成長による世界人口の急増があるからだ。1801年には9億人、1901年には16億人、1950年に25億人だった世界の人口は2007年には66億人にまで膨れ上がったのである。
ここで少なからぬ人が、かって社会科で習ったマルサスの「人口論」を思い出すだろう。マルサスは、「人口は幾何級数的に増加するのに対し、食糧供給は算術的にしか増加しない。ゆえに過剰人口による貧困と悪徳が理想社会の実現を阻む」と断じたのであった。要するに、人口の爆発的な増加に、食糧供給はとても追いつかない。その結果、貧困、飢え、盗み、殺人はては戦争まで起きるという暗黒時代を予言したのだった。
付け加えれば、この「人口」というマルサスの制約を「石油」に置き換え、警告を発したのが1972年のローマクラブの「成長の限界」であった。
そのマルサスの予言もローマクラブの警告も、人類は乗り越えた。生産性の著しい向上、省エネルギーや代替エネルギーという人知で、克服した。だが、途上国の工業化、成長、地球環境の悪化、エネルギー問題の深刻化、慢性的食糧不足、世界的な人口爆発――さまざまな問題が絡み、ついに“地球による扶養力”の限界が見え始めたのではないか。それは確かに、マルサスの世界かもしれない。米国ジョージ・ブッシュ政権の経済顧問を務めたトット・バックホルツ氏は、「今後の世界経済は、マルサスを引用して解説されることが増えるだろう」と指摘している。
では、暗黒の時代が来ると予言したマルサスは、いかなる対策を提示したのだろうか。何もしていない。人間の貧困や悪徳が発生するのは、いたし方のない「人口の原理」ゆえである。人口爆発による食料不足は逃れられない「自然の摂理」なのだ、という結論に帰着したのである。
そして、深刻な食糧不足によって全般的な危機状況に陥れば、疾病の蔓延、産児制限、結婚抑制、戦争などが起こり、結果的に人口増が抑制される。それが、当然の論理の帰結だと予測した。
貧困や悪徳が抗しがたい自然現象であり、それが結果的に人口増を調整するという結論から導き出されるのは、「何もするな」あるいは「なるようになる」という思想である。実際、200年前のイギリス政府は、頻発するストライキ、工場焼き討ちなどによる社内不安を、貧困層に対する「救貧法」の改正で対処しようとしていたが、マルサスは無意味、無駄だと切って捨てた。
もうお分かりだろうか。「何もするな」と唱えたマルサスは、ハイエク、フリードマンらに先立つ市場万能主義(新古典派、保守派など呼び方はいろいろあるが)経済学の源流なのである。同時に、当時のイギリスの地主、支配者層に与した強者の論理を展開したのである。
そのマルサスが今、亡霊のように甦りつつある。私は先ほど、世界的食糧危機には地球温暖化問題が絡んでいて、その背後には途上国の発展による人口急増問題がある、と書いた。これは、現代のネオ・マルサス主義者が真っ先に口にすることなのである。
彼らは内心、「何もするな」と考えている。途上国がどんなに飢えようが混乱しようが支援に消極的、あるいは援助は打ち切るべきだとさえ言う。そんな非人間的な主張が、まかり通ることがありえるのかと思われるだろうか。
では、米国のブッシュ政権が京都議定書から離脱したのはなぜだろうか。彼らは、「途上国に義務を課していない議定書は不完全である」という理由をひとつに挙げている。地球環境問題における先進国責任論を展開する途上国に対して、米国の共和党ブッシュ政権、つまり保守派政府は、「途上国の発展が地球を危機に陥れる」、つまり、「国際的な格差をあったほうがいい、それを解消する支援など必要ない」と、内心確信している。彼らは途上国の発展権を認めない、現代のマルサスたちである。
10年以上前から、新古典派、保守派の主張を源流のマルサスまで辿り、その影の危険を指摘してきた佐和隆光・立命館大教授は、「途上国の発展、人口急増を地球温暖化問題の最大原因とする主張する人びとは少なくない。彼らが、環境問題をこれ以上悪化させないためにも、食糧高騰に苦しむ途上国を放置してもやむえない、それによって人口増が調整されると考えても不思議はない」と言う。
新古典派、保守派は、政府の介入能力を信じない、進歩も啓蒙も否定する反理性主義だ。
途上国への食糧援助を担う世界食糧計画(WFP)の食糧調達費用は上昇し続け、800億円近い予算追加を緊急で求めている。先進各国、国連を初めとするさまざまな国際機関は、経験したことのない急激で広範な食糧不安の認識が薄く、連携できず、援助コストの膨張に戸惑い、明らかに対応に出遅れた。北海道洞爺湖サミットは、食糧・環境サミットとなる。国際社会は今、反理性主義の挑戦を受けようとしている(敬称略、辻広雅文、『週刊ダイヤモンド』掲載)。

