
No.45 日銀の独立性を脅かすのは誰か
日銀総裁人事を巡る議論で、にわかにクローズアップされたのが「中央銀行の独立性」である。民主党は、元財務次官の武藤敏郎・日銀副総裁の昇格では日銀の独立性を守れぬ、と反対した。
次に政府が提示した田波耕治・国際協力銀行総裁も、財務次官経験者だという同じ理由で拒否した。
中央銀行の独立性とは何かを考えることは、中央銀行がなぜ存在するのかを知ることであり、それは歴史が教えるところでもある。いかなる国でも、政府与党はさまざまな欲求あるいは圧力から、財政を出動したいという誘惑に常に駆られる存在である。その彼らに金融政策を任せたら、すき放題におカネを刷りまくるだろう。その結果はインフレーションであり、時に狂乱するほどに講じてしまい、戦争にまで突入したのが、第二次世界大戦前のドイツであった。
しかしながら、中央銀行の独立性は政府と離れ、唯我独尊のごとく無制限に認められるものではない。名セントラルバンカーの誉れ高いマービン・キング英国中央銀行総裁は、「中央銀行には、“制約された裁量”が与えられている」と講演で述べている。”制約された裁量“とは、一定のフレーム内で自由に政策手腕を振るう権限である。例えば、英国でのインフレターゲットは、政府が中央銀行に対して、目標は中期的な物価安定であることを明確に指示した上で、その範囲内のオペレーションは100%任せるという枠組みである。これが、今日世界の金融界でコンセンサスとされる、中央銀行の独立性といえよう。
翻って、これまで日本でインフレターゲットの導入が議論されたとき、政府閣僚、さらには学者まで加わって、短期的な達成義務を都合よく強調し、貨幣供給量や物価上昇率の数値目標を機械的ルールとして課すことの有効性を語った。小泉政権時の竹中平蔵氏が、その典型であろう。
キング総裁は、こう説明している。「中央銀行が機械的なルールに基づいて行動するということは、中央銀行がルール設定後に経済が変化しても一切何も学ばないことを意味する。しかし、完全なルールは存在しない。そのため、変化に学ぶ、つまり裁量を中央銀行に委託しているのである」
こうした中央銀行の独立性と役割に対する深い考察は、日本にはまるで根付いていない。与党の要職者も、中川秀直・自民党元幹事長に至っては日銀法改正まで示唆し、金融政策判断に恫喝に近い発言を続けたのは、記憶に新しい。日銀の独立性が強化されたといわれる一九九八年の日銀法改正の後の発言である。まさに政府与党挙げて、日銀の地位を貶め、総裁の椅子を軽んじてきたのだ。当時、ある日銀幹部は「日本に中銀の独立性はない」と苦しげに呟いたものだ。
今回の日銀総裁人事に関して、その政府与党の中枢の人物たちが、日銀総裁職を崇高にして重大、日銀の独立性は侵さざるもの、などと力説し続けた。これまでの政府高官の暴言を諫めてこなかったメデイアは今回も、総裁の椅子の空席は許されないと騒ぎ立て、政府与党と同調して民主党を責めた。
日銀総裁人事を政争の具にすべきではない、という批判はその通りだろう。ここでは縷々述べないが、民主党の反対理由が説得力を失っているのも事実である。だが、先進国の成熟した政府と中央銀行の関係、洗練された政策協調とは無縁の政府与党の無理解を振り返れば、中央銀行の独立性への懸念は拭い去れないのである。
次に政府が提示した田波耕治・国際協力銀行総裁も、財務次官経験者だという同じ理由で拒否した。
中央銀行の独立性とは何かを考えることは、中央銀行がなぜ存在するのかを知ることであり、それは歴史が教えるところでもある。いかなる国でも、政府与党はさまざまな欲求あるいは圧力から、財政を出動したいという誘惑に常に駆られる存在である。その彼らに金融政策を任せたら、すき放題におカネを刷りまくるだろう。その結果はインフレーションであり、時に狂乱するほどに講じてしまい、戦争にまで突入したのが、第二次世界大戦前のドイツであった。
しかしながら、中央銀行の独立性は政府と離れ、唯我独尊のごとく無制限に認められるものではない。名セントラルバンカーの誉れ高いマービン・キング英国中央銀行総裁は、「中央銀行には、“制約された裁量”が与えられている」と講演で述べている。”制約された裁量“とは、一定のフレーム内で自由に政策手腕を振るう権限である。例えば、英国でのインフレターゲットは、政府が中央銀行に対して、目標は中期的な物価安定であることを明確に指示した上で、その範囲内のオペレーションは100%任せるという枠組みである。これが、今日世界の金融界でコンセンサスとされる、中央銀行の独立性といえよう。
翻って、これまで日本でインフレターゲットの導入が議論されたとき、政府閣僚、さらには学者まで加わって、短期的な達成義務を都合よく強調し、貨幣供給量や物価上昇率の数値目標を機械的ルールとして課すことの有効性を語った。小泉政権時の竹中平蔵氏が、その典型であろう。
キング総裁は、こう説明している。「中央銀行が機械的なルールに基づいて行動するということは、中央銀行がルール設定後に経済が変化しても一切何も学ばないことを意味する。しかし、完全なルールは存在しない。そのため、変化に学ぶ、つまり裁量を中央銀行に委託しているのである」
こうした中央銀行の独立性と役割に対する深い考察は、日本にはまるで根付いていない。与党の要職者も、中川秀直・自民党元幹事長に至っては日銀法改正まで示唆し、金融政策判断に恫喝に近い発言を続けたのは、記憶に新しい。日銀の独立性が強化されたといわれる一九九八年の日銀法改正の後の発言である。まさに政府与党挙げて、日銀の地位を貶め、総裁の椅子を軽んじてきたのだ。当時、ある日銀幹部は「日本に中銀の独立性はない」と苦しげに呟いたものだ。
今回の日銀総裁人事に関して、その政府与党の中枢の人物たちが、日銀総裁職を崇高にして重大、日銀の独立性は侵さざるもの、などと力説し続けた。これまでの政府高官の暴言を諫めてこなかったメデイアは今回も、総裁の椅子の空席は許されないと騒ぎ立て、政府与党と同調して民主党を責めた。
日銀総裁人事を政争の具にすべきではない、という批判はその通りだろう。ここでは縷々述べないが、民主党の反対理由が説得力を失っているのも事実である。だが、先進国の成熟した政府と中央銀行の関係、洗練された政策協調とは無縁の政府与党の無理解を振り返れば、中央銀行の独立性への懸念は拭い去れないのである。
