
No.40 日本の「年金改革行き最終列車」はすでに出発した
年金問題は、とかく分かりにくい。
政府は二〇〇九年度までに、“基礎年金の国庫負担分を二分の一に引き上げる時期”を決定しなければならない。小泉政権が「百年安心」と大見得を切った、二〇〇四年の年金大改革での約束である。
この「国庫負担」という表記は、国民にとって国が面倒を見てくれるかのごとき錯覚を与える。だが、油田を抱える中東の国でもあるまいし、政府にその財源を新たに生み出す魔術があるはずはない。一般財源を切り詰めることは不可能だろうし、事実上、消費税の増税しか道はない。いずれにしろ、税金なのである。
ちなみに、国庫負担分、つまり税金比率を引き上げる意味は大きい。今の保険方式では当然のことながら、保険料を払えない人には年金は給付されない。裕福ではない人の老後生活こそを担保するはずの基礎年金がそれでは、価値がなかろう。理想は、全額税方式だろう。だから、これは重要な改革の一歩である。
だが、消費税は一九七〇年台に議論が始まって三〇年余の間に、導入と増税が一回しか果たせていない。時の内閣が政権と引き換えにする覚悟が必要なほどに難しい。だが、福田康夫首相には、時間も勢いもないのは明らかだ。増税できずに二分の一の引上げに失敗すれば、二〇〇四年の年金大改革の建て付けが根底から崩れてしまう。
では、仮に、この難題をクリアしたとしよう。残された問題はまだ多々あり、少子高齢化がもたらす財源難は深刻で、年金制度を持続するには、最終的には、給付額の切り下げに行き着かざるをえない。多くの専門家が一致する結論である。
だから、私は常々不思議に思ってきた。いつの頃からか、世論調査では常に年金改革が政策課題の第一位に挙がるようになった。普通に考えれば、自分に不利になるような改革を望む人がいるはずがない。とすれば、年金改革を望む人びと、とりわけ中高年の人びとは、まったく逆の結果――抜本改革が断行されたら、現在の給付額が維持される、もしくは増額されると思い込んでいるのではないだろうか。
それは、彼らの責任ではない。年金問題は、とかく分かりにくい。それを政府は利用してきた。場当たりの政策とあいまいな言葉で誤解を包み込み、問題解決を先送りにしてきた。真実を語れば、激しい抵抗と責任追及に遭い、政権が持たなくなる。改革を困難にしてきたのは、政府自身である。
では、福田首相が勇気を奮い、真実をあまさず伝えたとしよう。世論調査における年金改革の優先順位はたちまち下がり、現状維持派が急増するだろう。
奇しくも、政府が「百年安心」と胸を張った年金改革を決めた二〇〇四年、九月に開かれた国際通貨基金(IMF)会議で、「年金改革行き最終列車はいつ出るか」なる資料が配られた。そこには、五〇歳以上の中高年人口が有権者の半数を超えたときが、その列車の発車時刻だと書かれていた。つまり、現行の年金制度における受給者と受給年齢に近づく人びとは既得権者であり、彼らが有権者の過半数になることは、改革に対して“拒否権”を握ることに等しく、実行は極めて困難になるから、それ以前に断行すべきだという警告である。
その資料には、国別のリストが付いていた。”最終列車“の出発ベルが鳴り響くのは、米国、ドイツ、フランスが一一年後、英国は三六年後で、まだたっぷりと時間がある。だが、日本はすでにリストにない。少子高齢化が図抜けて早く進む日本は、二〇〇三年一〇月に五〇歳以上の中高年が有権者数の五割を超え、すでに年金改革行き最終列車はホームを出てしまっていたのである。
政府とりわけ指導層の怠惰、既得権者の壁――だが、私たちも共犯関係にある。池尾和人・慶應義塾大学教授はときどき授業で、「今生きている日本人は、みな罪人です」と、口にする。二〇歳前後の学生は中高年に比べれば不利であり、負担は重いが、それでも、これから生まれてくる将来世代から搾取する現行制度に依存している点では、同じだからだ。
もはや一刻の猶予もならぬ、と警鐘を鳴らすときすら過ぎている(辻広雅文、『週刊ダイヤモンド』掲載)。

