ミャンマー情勢と報道規制
インタビュワーのいない単独インタビュー

先週の「アジアNOW」で19年前バンコクに駐在していたとき取材した映像が流れた。
1988年8月、騒乱状態のヤンゴンでスー・チーさんが単独インタビューに応えてくれた映像だ。
当時、取材ビザはおろかメディアには観光ビザすら発給されなかった。
つまりミャンマーに記者は入国できなかった。
観光客や商社マンに頼る取材しかできなかった。
1988年騒乱が始まった直後はスー・チーさんはほとんど注目されていなかった。
スー・チーさん自身も政治問題に興味はなく、たまたま病に臥せっていた母親を見舞いにイギリスからヤンゴンに来ていただけだった。
しかし独立の父アウンサン将軍の娘ということでたちまち民主化運動のリーダーに押し上げられた。
当然、スー・チーさんの単独インタビューを各社が狙っていた。
不可能だとは思ったが、何もしないわけにいかない。
まず日本語で今後の方針や日本政府に今何を望むかなど数項目の質問を書いた。
それを英語にして、タイ人の記者に手渡し、タイ語に訳してもらった。
その質問状をタイとミャンマー国境の街メソッドにいる助手に電話で伝えた。
メソッドとヤンゴンの間には当時2本の国際回線があった。
メソッドの助手は軍事政権の傍受されないようタイ語をマンダリン語に変換した。
助手はマンダリン語に返還した質問状をヤンゴンのミャンマー人のカメラマンに電話で伝えた。
カメラマンはそのマンダリン語を英語に直し、スー・チーさんに手渡した。
だが、このままでは単独インタビューにならない。
そこでカメラの前でこれから私の単独インタビューに答えますとスー・チーさんに言って欲しいと質問状の冒頭に注文をつけた。
さらにインタビュワーがいないからまず質問をスー・チーさんに読んでもらいそれから答えて欲しいという注文もつけた。
記者暦30年、ずうずうしい単独インタビューを思い出し今でも冷や汗が出る。
取材したテープをカメラマンはあらかじめお願いしてあった某日本メーカー・ヤンゴン支店の日本人営業マンの机上に置いた。
その日本人営業マンがテープを持ってバンコクに出てきて、バンコク空港から電話で荷物を持ってきたことを伝えてくれた。
テープが来たと喜び勇んで空港に出かけ受け取ったが、お茶の缶のように丸い筒状のものだった。
テープが来たと思ったのでいささか落胆したが、支局で荷物を開いてみて驚いた。
中身はVHSテープのカセットからテープだけを取り出し、それを積み重ねたものをテープが緩まないようにラップで包んだものだった。
これではヤンゴンの空港で荷物をチェックされてもテープだとは思われない。
カメラマンの気転に舌を巻いた。
さっそく新しいVHSテープを買い込み、中のテープを捨てて運ばれたテープをカセットにセットし、再生してみた。
日本から応援に来ていた若い記者は映像を見て「この美人は誰です」といった。
日本語、英語、タイ語、マンダリン語そして再び英語という複雑な伝言ゲームであったが、冒頭でスー・チーさんが単独インタビューに答えると言ってくれたばかりか、質問の内容もほとんど変わっていなかった。
周りの協力で実った単独インタビューはことのほかうれしかった。
ちなみにスー・チーさんは日本に留学経験があり、かなり日本語ができるということを当時知らなかった。
スー・チーさんを知らなかった若い記者を笑えない。
先週の「アジアNOW」で19年前バンコクに駐在していたとき取材した映像が流れた。
1988年8月、騒乱状態のヤンゴンでスー・チーさんが単独インタビューに応えてくれた映像だ。
当時、取材ビザはおろかメディアには観光ビザすら発給されなかった。
つまりミャンマーに記者は入国できなかった。
観光客や商社マンに頼る取材しかできなかった。
1988年騒乱が始まった直後はスー・チーさんはほとんど注目されていなかった。
スー・チーさん自身も政治問題に興味はなく、たまたま病に臥せっていた母親を見舞いにイギリスからヤンゴンに来ていただけだった。
しかし独立の父アウンサン将軍の娘ということでたちまち民主化運動のリーダーに押し上げられた。
当然、スー・チーさんの単独インタビューを各社が狙っていた。
不可能だとは思ったが、何もしないわけにいかない。
まず日本語で今後の方針や日本政府に今何を望むかなど数項目の質問を書いた。
それを英語にして、タイ人の記者に手渡し、タイ語に訳してもらった。
その質問状をタイとミャンマー国境の街メソッドにいる助手に電話で伝えた。
メソッドとヤンゴンの間には当時2本の国際回線があった。
メソッドの助手は軍事政権の傍受されないようタイ語をマンダリン語に変換した。
助手はマンダリン語に返還した質問状をヤンゴンのミャンマー人のカメラマンに電話で伝えた。
カメラマンはそのマンダリン語を英語に直し、スー・チーさんに手渡した。
だが、このままでは単独インタビューにならない。
そこでカメラの前でこれから私の単独インタビューに答えますとスー・チーさんに言って欲しいと質問状の冒頭に注文をつけた。
さらにインタビュワーがいないからまず質問をスー・チーさんに読んでもらいそれから答えて欲しいという注文もつけた。
記者暦30年、ずうずうしい単独インタビューを思い出し今でも冷や汗が出る。
取材したテープをカメラマンはあらかじめお願いしてあった某日本メーカー・ヤンゴン支店の日本人営業マンの机上に置いた。
その日本人営業マンがテープを持ってバンコクに出てきて、バンコク空港から電話で荷物を持ってきたことを伝えてくれた。
テープが来たと喜び勇んで空港に出かけ受け取ったが、お茶の缶のように丸い筒状のものだった。
テープが来たと思ったのでいささか落胆したが、支局で荷物を開いてみて驚いた。
中身はVHSテープのカセットからテープだけを取り出し、それを積み重ねたものをテープが緩まないようにラップで包んだものだった。
これではヤンゴンの空港で荷物をチェックされてもテープだとは思われない。
カメラマンの気転に舌を巻いた。
さっそく新しいVHSテープを買い込み、中のテープを捨てて運ばれたテープをカセットにセットし、再生してみた。
日本から応援に来ていた若い記者は映像を見て「この美人は誰です」といった。
日本語、英語、タイ語、マンダリン語そして再び英語という複雑な伝言ゲームであったが、冒頭でスー・チーさんが単独インタビューに答えると言ってくれたばかりか、質問の内容もほとんど変わっていなかった。
周りの協力で実った単独インタビューはことのほかうれしかった。
ちなみにスー・チーさんは日本に留学経験があり、かなり日本語ができるということを当時知らなかった。
スー・チーさんを知らなかった若い記者を笑えない。
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