
永田町の舞台裏 07.10.27号
「天皇」とは畏れ多い
いま注目の前防衛事務次官、守屋武昌さんとほぼ毎日顔を合わせていたのはおよそ11年前のことだった。
守屋さんは当時、防衛局審議官兼防衛政策課長。私は政治部の防衛庁担当。沖縄の少女暴行事件が日米両政府も巻き込む問題に発展、日米同盟が「漂流」していると言われていたころで、日米安保再定義から新ガイドライン改定、そして普天間基地返還問題など、とにかく取材に追われていた。
この年は1月に村山さんが退陣して、橋本さんが首相になり、日米の同盟管理のど真ん中は外務省が北米局長の折田正樹さんと審議官のあの田中均さん、防衛庁は防衛局長の秋山昌広さんと守屋さんが担っていた。
以下は、私個人の受け取り方で決して一般化できないことは承知している。ただ、記憶をたどると、守屋さんに何十回話を聞きに行っても、はぐらかされたことを思い出す。政界の話など座談としてはおもしろかったのだが、こと防衛政策に限ってはこの人からいいネタは取れまいと観念していた。
このことは守屋さんサイド、つまり公務員という立場から見ると立派なことかもしれない。だが、私の経験では、責任あるポストの公務員は記者に対して、秘密の暴露は積極的にしないものの、例えば普天間基地返還問題なら、少なくても、日米の基本的立場と彼我の政治的環境、とりうるべき現実的な選択肢、自分の政治・外交信条などを語る。記者はそうした話から、たとえば日米の外交・防衛当局間の交渉の推移を想像し、焦点を決めて取材し、その蓄積を読者に伝える。
なぜこうしたことがありうるのか。実際に、お世話になった公務員たちと詰めた話をしたことはないが、民主政府の「公僕」として、国民の知る権利をある種担保しているメディアと政策課題やその解決策の選択肢を共有することは、民主的政治過程を裏打ちするものとしてすこぶる大事なことだ、というコモンセンスがその世界に成立していたからだと思う。
私はかつてこのコラムで、守屋さんの専制を許したのは防衛庁内(省内)の人材不足、つまり同僚、先輩・後輩の見て見ぬ振りとか事なかれ主義があったからであって、守屋さんの政策処理能力や人格が優れていたからではないと指摘したが、もう一度言うと、守屋さんは決して防衛庁(省)の「天皇」ではなかったと思う。
組織が何であれ、そこの「天皇」と呼ばれるには、組織運営や職務執行を統率しているだけではなく、そうした日々の仕事の背景にある思想、精神を体現していることが不可欠な要素ではないのか。少なくても私は日本語をそう理解している。このころの守屋さんからは、沖縄の基地問題をこう解決しようとか、日米同盟をこう運営しようという骨太な話は聞けなかった。
防衛庁発足以来、この役所で「天皇」と呼ばれるにふさわしかったのは、80年代後半に初めて生え抜きの次官となった西広整輝さんぐらいだろう。守屋さんがその西広さんから粗略に扱われたと言われていることも、なにやら示唆的に思えてくる。
週刊誌やテレビには「守屋天皇」というコトバが踊っているが、まずは29日の国会証人喚問で、「天皇」の実像がどんなものか、をとくと確認してもらいたい。テレビは静止画像になるようだが、縫いぐるみのような外見と、東北訛りの残る甲高い声の主は、防衛省を体現していた(いる)のか。
守屋さんと業者との癒着が今後、事件になるのかどうかは分からない。しかし、メディアと検察当局はしばらく守屋さんを追い詰めるだろう。「天皇」が実際はどんな人だったのか、判断する材料は喚問後もたくさん出てくるに違いない。(O)
いま注目の前防衛事務次官、守屋武昌さんとほぼ毎日顔を合わせていたのはおよそ11年前のことだった。
守屋さんは当時、防衛局審議官兼防衛政策課長。私は政治部の防衛庁担当。沖縄の少女暴行事件が日米両政府も巻き込む問題に発展、日米同盟が「漂流」していると言われていたころで、日米安保再定義から新ガイドライン改定、そして普天間基地返還問題など、とにかく取材に追われていた。
この年は1月に村山さんが退陣して、橋本さんが首相になり、日米の同盟管理のど真ん中は外務省が北米局長の折田正樹さんと審議官のあの田中均さん、防衛庁は防衛局長の秋山昌広さんと守屋さんが担っていた。
以下は、私個人の受け取り方で決して一般化できないことは承知している。ただ、記憶をたどると、守屋さんに何十回話を聞きに行っても、はぐらかされたことを思い出す。政界の話など座談としてはおもしろかったのだが、こと防衛政策に限ってはこの人からいいネタは取れまいと観念していた。
このことは守屋さんサイド、つまり公務員という立場から見ると立派なことかもしれない。だが、私の経験では、責任あるポストの公務員は記者に対して、秘密の暴露は積極的にしないものの、例えば普天間基地返還問題なら、少なくても、日米の基本的立場と彼我の政治的環境、とりうるべき現実的な選択肢、自分の政治・外交信条などを語る。記者はそうした話から、たとえば日米の外交・防衛当局間の交渉の推移を想像し、焦点を決めて取材し、その蓄積を読者に伝える。
なぜこうしたことがありうるのか。実際に、お世話になった公務員たちと詰めた話をしたことはないが、民主政府の「公僕」として、国民の知る権利をある種担保しているメディアと政策課題やその解決策の選択肢を共有することは、民主的政治過程を裏打ちするものとしてすこぶる大事なことだ、というコモンセンスがその世界に成立していたからだと思う。
私はかつてこのコラムで、守屋さんの専制を許したのは防衛庁内(省内)の人材不足、つまり同僚、先輩・後輩の見て見ぬ振りとか事なかれ主義があったからであって、守屋さんの政策処理能力や人格が優れていたからではないと指摘したが、もう一度言うと、守屋さんは決して防衛庁(省)の「天皇」ではなかったと思う。
組織が何であれ、そこの「天皇」と呼ばれるには、組織運営や職務執行を統率しているだけではなく、そうした日々の仕事の背景にある思想、精神を体現していることが不可欠な要素ではないのか。少なくても私は日本語をそう理解している。このころの守屋さんからは、沖縄の基地問題をこう解決しようとか、日米同盟をこう運営しようという骨太な話は聞けなかった。
防衛庁発足以来、この役所で「天皇」と呼ばれるにふさわしかったのは、80年代後半に初めて生え抜きの次官となった西広整輝さんぐらいだろう。守屋さんがその西広さんから粗略に扱われたと言われていることも、なにやら示唆的に思えてくる。
週刊誌やテレビには「守屋天皇」というコトバが踊っているが、まずは29日の国会証人喚問で、「天皇」の実像がどんなものか、をとくと確認してもらいたい。テレビは静止画像になるようだが、縫いぐるみのような外見と、東北訛りの残る甲高い声の主は、防衛省を体現していた(いる)のか。
守屋さんと業者との癒着が今後、事件になるのかどうかは分からない。しかし、メディアと検察当局はしばらく守屋さんを追い詰めるだろう。「天皇」が実際はどんな人だったのか、判断する材料は喚問後もたくさん出てくるに違いない。(O)



