
永田町の舞台裏 07.04.28号
「正論」からすり抜けるもの
安倍さんの発言には「?」となることが少なくないが、今回はサポートしたい。
長崎市長銃撃事件直後のコメントのことである。17日夜、事件を受けて安倍さんは「真相が究明されることを望む」と語った。ところが、多くのメディアから、言論の自由や民主主義に対するテロなのに、「ひとごとのようだ」「怒りが少ない」などと批判されたのである。
まあ、昨年夏、加藤紘一さんの自宅が放火されたとき、小泉さんが何のコメントも出さなかったことが思い出されるし、安倍さんの言動にもどこか「肉体言語」に親和的な部分がありはしないか。メディア界にそんな見立てが漂っていることは、その片隅にいる人間としてよく分かる。しかし、安倍さんは本当にメディアが勧めるような発言をしなければならなかったのか。
事件から10日ほどたったが、被疑者から「市長のこういう政治的発言が気に食わなかった」とか「だれかほかの候補を当選させたかった」とかいう供述は引き出せていない。むしろ、事件の背景として市役所とのトラブル、被疑者の経済的困窮、暴力団内部での境遇などが語られることが多いようだ。即断は禁物だが、現時点ではどうも「個人的恨みが昂じたうえの凶行」という色合いが濃く、いわゆる政治的、思想的な側面はないように見える。
さて、事件当時の新聞の社説を振り返ってみよう。見出しはいずれも東京最終版。
「このテロを許さない」(18日朝日朝刊)
「蛮行を許してなるものか」(18日毎日朝刊)
「統一地方選さなかに起きたテロ」(18日読売朝刊)
「民主主義へのテロだ」(19日日経朝刊)
「許されない暴力団のテロ」(18日産経朝刊)
読売や産経がやや落ち着いているように見えるが、いずれもこの銃撃はテロであり、ゆえにあってはならないことであり、言論や政治活動の自由が封じられてはいけないと主張している。そのほか、解説記事や政治家や識者の談話も「決して許されない」などと同様である。あらゆる種類の言論が許容されているように思える昨今、これほどモノトーンの論調も珍しい。そして、メディアの議論はいささか性急だったように思えるし、それと対照的に、安倍さんに一理あった、と言わざるを得ないのではないか。
振り返ればここ何十年、政治家や言論人に何か物理的な攻撃が加えられると、言論へのテロである→民主主義の危機である→我々は屈しない、とメディアが条件反射のように大合唱してきた。確かに、戦前の日本のように「肉体言語」が横行しては困るので、こうした反応も「予防」と考えれば、意味はある。ただ、機械的な言説からはすり抜けてしまう視点もあるように思う。
私には、暴力が言論や政治に向けられたことより、暴力そのものが問題のように思える。政治家を殺したから、あるいは選挙中だったから、今回の事件がとりわけひどいのではないと思う。人の命を故意に奪ったこと自体が「許されない」のではないか。誤解を恐れずに言おう。長崎市長と、たとえば村井秀夫さん(オウム真理教幹部)の遭難は、同じように理不尽で、同じように私たちは再発防止に努めるべきなのだ。
私のこれまでの取材経験でも、ブラックな筋から「お嬢さん高校に入学なさったようですね。制服がお似合いだ」とかいった挨拶(無論、脅しである)を受けたことのある役人や警察官を何人も知っている。ふつうのサラリーマンだって、拳銃で撃たれこそしないものの、「暴力」が身に迫ることはあるだろう。会社だって学校だって、形にはならないある種の暴力が行使されていないか。
この世に暴力はあまねく存在している。そして、その大部分は野放しである。この状況をどうにかしない限り、いくらメディアが政治家や言論人へのテロをなくそうと言っても、話はうまく運ばない気がする。(O)
安倍さんの発言には「?」となることが少なくないが、今回はサポートしたい。
長崎市長銃撃事件直後のコメントのことである。17日夜、事件を受けて安倍さんは「真相が究明されることを望む」と語った。ところが、多くのメディアから、言論の自由や民主主義に対するテロなのに、「ひとごとのようだ」「怒りが少ない」などと批判されたのである。
まあ、昨年夏、加藤紘一さんの自宅が放火されたとき、小泉さんが何のコメントも出さなかったことが思い出されるし、安倍さんの言動にもどこか「肉体言語」に親和的な部分がありはしないか。メディア界にそんな見立てが漂っていることは、その片隅にいる人間としてよく分かる。しかし、安倍さんは本当にメディアが勧めるような発言をしなければならなかったのか。
事件から10日ほどたったが、被疑者から「市長のこういう政治的発言が気に食わなかった」とか「だれかほかの候補を当選させたかった」とかいう供述は引き出せていない。むしろ、事件の背景として市役所とのトラブル、被疑者の経済的困窮、暴力団内部での境遇などが語られることが多いようだ。即断は禁物だが、現時点ではどうも「個人的恨みが昂じたうえの凶行」という色合いが濃く、いわゆる政治的、思想的な側面はないように見える。
さて、事件当時の新聞の社説を振り返ってみよう。見出しはいずれも東京最終版。
「このテロを許さない」(18日朝日朝刊)
「蛮行を許してなるものか」(18日毎日朝刊)
「統一地方選さなかに起きたテロ」(18日読売朝刊)
「民主主義へのテロだ」(19日日経朝刊)
「許されない暴力団のテロ」(18日産経朝刊)
読売や産経がやや落ち着いているように見えるが、いずれもこの銃撃はテロであり、ゆえにあってはならないことであり、言論や政治活動の自由が封じられてはいけないと主張している。そのほか、解説記事や政治家や識者の談話も「決して許されない」などと同様である。あらゆる種類の言論が許容されているように思える昨今、これほどモノトーンの論調も珍しい。そして、メディアの議論はいささか性急だったように思えるし、それと対照的に、安倍さんに一理あった、と言わざるを得ないのではないか。
振り返ればここ何十年、政治家や言論人に何か物理的な攻撃が加えられると、言論へのテロである→民主主義の危機である→我々は屈しない、とメディアが条件反射のように大合唱してきた。確かに、戦前の日本のように「肉体言語」が横行しては困るので、こうした反応も「予防」と考えれば、意味はある。ただ、機械的な言説からはすり抜けてしまう視点もあるように思う。
私には、暴力が言論や政治に向けられたことより、暴力そのものが問題のように思える。政治家を殺したから、あるいは選挙中だったから、今回の事件がとりわけひどいのではないと思う。人の命を故意に奪ったこと自体が「許されない」のではないか。誤解を恐れずに言おう。長崎市長と、たとえば村井秀夫さん(オウム真理教幹部)の遭難は、同じように理不尽で、同じように私たちは再発防止に努めるべきなのだ。
私のこれまでの取材経験でも、ブラックな筋から「お嬢さん高校に入学なさったようですね。制服がお似合いだ」とかいった挨拶(無論、脅しである)を受けたことのある役人や警察官を何人も知っている。ふつうのサラリーマンだって、拳銃で撃たれこそしないものの、「暴力」が身に迫ることはあるだろう。会社だって学校だって、形にはならないある種の暴力が行使されていないか。
この世に暴力はあまねく存在している。そして、その大部分は野放しである。この状況をどうにかしない限り、いくらメディアが政治家や言論人へのテロをなくそうと言っても、話はうまく運ばない気がする。(O)



